彫刻家 伊藤五百亀

彫刻との出会い

大正7年、愛媛県新居郡大保木村黒瀬(現西条市黒瀬)に生まれた五百亀は、彫刻好きの父親の影響を受け彫刻と出合う。

 

13歳の頃、雑誌『キング』で紹介されていた彫刻家の帝展出展作品を見て、その美しさに感動したことから、彫刻家になることを決心。

 

当時の決意のことについて後年、

「雑誌の彫刻を見ましてね、よし、これ位なら自分でもやれるのではないかと思ったんです。父親をどうにか説得して上京したわけですよ。本当に彫刻が好きだったんですなぁ。」

と語った。

 

彫刻家としての活躍

昭和15年、多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)中途退学。その後、吉田三郎に師事。本格的な制作活動に入る。

 

昭和17年、第5回文部省美術展覧会(文展)で『立像』が初入選。翌年の第6回文展では『鍬の戰士』が特選を受賞する。鍬を持ち、力強く大地を踏みしめている青年の姿は、戦時下の厳しい状況の中、農に打ち込む故郷の人々への尊敬の念を表している。均整のとれた美しい青年の姿によって、人間の内面的な清らかさ、強さを表現するという伊藤五百亀の作風は、この『鍬の戰士』によって確立され、その後も一貫して続けられた。

 

終戦後は、彫刻の道を諦め、農作業に従事していたが、故郷の人々の支援を受け、制作活動を再開する。昭和29年、復帰第1作目となる《潮先》が第10回日展で特選、続く第11回日展《崖》においても連続特選を受賞するという偉業を成し遂げ、故郷の人々の期待に大きく応えると同時に見事な再起を果たした。

 

自らを極める

作品には、作家の全てが表に出ると考えた伊藤五百亀は

「制作には、心身共に健康であることが第一である。」

と語り、さらに、

「姿形を作るのは、慣れてくれば容易にできる。しかし、その作品が見る人に訴えかける内面的なものを表現するには、技術だけではない人間性が重要である。」

と語っている。

 

その言葉から、制作とは、単なる造形の問題だけではなく、精神の表現であるということを読み取ることができる。

 

厳しく、強く、そして愛情深く彫刻と向き合い、自らの事を「忍耐強い亀が五百も集まっているんだ」と語り、自身の理想を忍耐強く追求し、彫刻家としての人生を貫いた。

潮先

うたかたの譜


略歴

1918(大正7) 5月11日、愛媛県西条市黒瀬に生まれる

1940(昭和15)

多摩帝美術学校(現多摩美術大学)中退
吉田三郎に師事

1942(昭和17)

第5回文展「立像」初入選

1943(昭和18)

第6回文展「鍬の戦士」特選受賞

1954(昭和29)

第10回日展「潮先」特選受賞

1955(昭和30)

第11回日展「崖」特選受賞

1956(昭和31)

第12回日展審査員となる(以後6回)

1958(昭和33)

日展会員

1961(昭和36)

日本彫塑会会員

1962(昭和37)

社団法人日展評議員となる

1974(昭和49)

第6回日展「うたかたの譜」文部大臣賞受賞

1978(昭和53)

社団法人日本彫塑会(現日本彫刻会)監事

1982(昭和57)

日本芸術院賞受賞(第13回日展出品作「渚」)
日本彫刻会理事

1983(昭和58)

日展理事

1991(平成3)

西条市功労賞受賞

1992(平成4

3月4日 没す 享年73歳